第 3727 号2020.07.19
「少女に戻った老姉妹」
オトシブミ(ペンネーム)
昨年母と叔母の老姉妹ふたりを連れ、焼き物の街、益子を車で 訪れた時の事です。 陶器の店をみてまわり、気に入った器も土産に買ったので「そ ろそろ帰ろう」と車を出しました。 少し走ると益子駅の方向に煙が見えました。「SLが来ているみ たいだよ。ちょっと見ていこうよ。」とふたりを誘うと、「私ら、 汽車はもう飽き飽き」と言うのです。 それというのも母たちの故郷の家は線路端に建ち、ふたりの父 である祖父は国鉄で機関士をしていた人で、家の前を父親が乗務 する列車が往き来するのを見て育った姉妹なのです。 しかし懐かしい祖父を思い出すSLを、なにより私が見たい。 「まあまあそう言わずに見にいきましょう」と車からふたりを降 ろして線路近くの空き地に移動して、SLの通過を待っていました。 やがて「ボーッ!」と汽笛が鳴り、「シュッシュッ」と力強い 蒸気の音が聞こえてきました。 それまで「わざわざ汽車を見るなんて」と文句を言っていたは ずのふたりが一転、「いやー懐かしいわ!この音を聞くの何十年 ぶりやろ!」とはしゃぎだしました。 そしていよいよSLが煙を吐きながら近づいてきた時、ふたりと も子供のように手を振っていました。 その時ふたりに気がついた機関士さんが汽笛を鳴らしてくれた のです。その瞬間、老姉妹は少女に戻っていました。膝が痛いは ずなのに、目の前を行くSLに向かい飛び跳ねばかりに手を振り何 かを叫んでいます。もうそれは大騒ぎ。 SLが走り去った方をいつまでも見つめているふたりに「体が冷 えるから」と促してやっと車に戻りました。 帰り道ミラー超しに見るふたりは涙が止まらない様子。 今日は益子よりずっと遠くのいつかの故郷へ、心は汽車に連れら れなかなか帰ってこれない老夫婦なのでした。