第 3721 号2020.06.07
「小さな幸せ」
ましもさん(ペンネーム)
今の家に引っ越してから十数年経つ。引っ越してすぐお隣のご夫婦 が話しかけてきてくれた。当時、お二人とも80歳近かった。子どもが いなく二人で人生を歩んできた。おばあさんは私をいつも気にかけて くれた。時折ご飯に誘ってくれたり、お饅頭をドア前置いておいたよ と電話をくれたり。程よい距離感で気にかけてくれた。 ある時、一緒に夕ご飯を食べている時に二人の馴れ初めを尋ねた。お ばあさん嬉しそうに話し始めた。若い頃に同じ会社に勤めていて恋愛 結婚をしたとのことだった。プロポーズされた際、家事が全くできな いため断ったところ、「食事は外食でいいし、洗濯は洗濯屋で良いっ てお父さんが言ってくれたの」と笑っていた。いつも届けてくれるお 饅頭は、二人が出会った会社の隣で今も営業する店のものだった。 ご近所付き合いがしばらく続いた昨年、突然だった。会社帰りに近所 の人に会ったとき、数日前におばあさんが急に亡くなり平日に葬儀を 行ったと聞いた。私は働いているから負担にならないように知らせな かったみたいだよと言っていた。 いつも気づかってくれていたけれど、こんな時まで気をつかってくれ る。 話を聞いた翌日、包装紙を思い出しながら二人からよくもらったお饅 頭のお店を探した。見つけた。包装紙の柄が変わっていた。店員さん に聞くと、何十年も同じデザインだったので最近新しく変わったとの ことだった。 新しい包装紙のお饅頭は、おばあさんの遺影の前に置かれた。おじい さんは「朝起きてすぐだったから、何も話さなかった。一言も話さず にいなくなってしまった」と呟いた。50年以上数えきれない程の言葉 を交わしたはずなのに、伝えたいこと、伝えてほしいことは絶えるこ とがないのだ。 二人の人生がどんなだったかは本人達にしかわからない。でも、二人 にとっての幸せが一つあったのは確かだと思う。出会った頃からの思 い出が詰まったお饅頭。またお土産で届けようと思う。