第 3714 号2020.03.29
「三月某日」
貫太郎(ペンネーム)
革靴を一足、新調した。 この春、会社の人事異動で地方の支店から東京の本社に転勤と なったため、自分を奮起させようという気持ちになったのと、40 歳を前にして少し良いモノを持とうと思ったのがきっかけだ。 冷たい小雨の降る日、私は有楽町にある国内シューズブランド の路面店に足を運んだ。店の外からよく磨かれたショーウィンド ウを覗くと、ちょっと自分には不釣合いな高級感のある店内に整 然と革靴が陳列されているのが見えた。店内の入口から少し離れ た所に、黒のニットに蝶ネクタイを合わせた洒落た雰囲気の店員 がこちらを見て立っており、やや気後れしそうになったが思い切 って敷居をまたいだ。 並んでいる靴をながめると、全体的にフォーマルなスタイルの ものが多く、選び抜かれた品揃えといった印象を持ったが、すぐ にその中の一足に目がとまった。それは光沢のあるブラウンの革 靴で、どんな色合いのスーツにも合わせられそうな物だった。私 は少し考えて、蝶ネクタイの店員に試着を申し出ると、すぐに笑 顔で応じてくれた。実際に履いてみるとこれまた抜群の履き心地 であり、鏡を見るとその日着ていた洋服にもよく合っているよう に思えた。良い物に出会えた喜びで、何とも言えず高揚した気分 になり、決して安いものではなかったが、その場で購入を即決し た。 蝶ネクタイはどうやら元々靴職人であったらしく、革靴につい ての豊富な知識を持っており、手入れの仕方から保存方法まで丁 寧に説明してくれた。私もせっかく良い靴を手にするのだから、 長く良好な状態で使えるよう熱心にその説明に耳を傾けた。 代金を支払い、蝶ネクタイに礼を言って店を出た。外は相変わ らずしとしとと降り続いていたが、厚手の紙袋の中に買ったばか りの靴の重みを感じながら、帰路の足取りは軽やかで、楽しく華 やいだ気持ちになった。 よし、明日からこの靴を履いて心機一転頑張ろう。