第 3708 号2020.2.16
「二人だけの銀座の冒険」
服部 啓(ペンネーム)
昔、そう、もう50数年も前、銀座のみゆき通りと並木通りの角
の小さなビルの2階にジュリアン・ソレルという名のティールー ムがあった。ジュリアン・ソレルという店の名前と、運ばれてき たコーヒーのスプーンの上に添えられた小さなレモンの皮の鮮明 な黄色にまだ高校生の私はどきどきして胸が痛かった。そんな小 さな冒険に貴女は私を連れて行ってくれた。いつも、いつも貴女 は私より何歩も先を軽やかに進んでいく。それぞれ家庭を持って からも、毎年一日だけ、私たちは二人だけで銀座に繰り出す。一 日だけの二人の冒険は、昔行った店を探しに懐かしさと昼食に飲 んだお酒で少々高揚した気分でふらふらと歩き回る。よく行った ドイツ料理の店も、裏通りの小さなおでん屋も焼鳥屋も、動き出 すとがたがた音をたてて揺れるエレベーターのあった老舗の紳士 服の店も今はない。さんざん歩き回り、夜はホテルのバーで遅く まで飲みながらおしゃべりをする。とうとう連れて行ってもらえ なかった「銀あ里」は貴女の思い出話を聞くだけ。そんな私たち の小さな冒険を「酔っぱらったばあさん程見苦しいものはない」 などと比喩するものもいるが、私たちは「健康で頑張ろう。どち らかが倒れるまで」と約束している。昨夏は、異常に暑く「年寄 りが銀座で熱中症で倒れた」なんてみっともないから秋口のと延 期にすれば、台風が直撃するとやらで中止になってしまった。冬 になったある日、貴女のご主人から「貴女が倒れた。今は面会も できない」との電話にどれだけ驚いたことか。貴女は話すことは 理解できるが「言葉が出ない」という。幸い奇跡的な回復を遂げ 3月には退院できるようだ。今年も暖かくなったら二人だけの冒 険に行こう。言葉の出ない貴女に何を話そう。今年、私たちは70 歳になる。これからの冒険は、新しい銀座を見つけにゆっくりゆ っくりと行こう。残念だけどお酒はほどほどにして。