「 五十六年目の晩秋のクラス会 」
岩部 隆明(大田区)
都会育ちの私が夕張の山村の小学校に転校したのは、六年生の五月の連休後だった。身心の不調で不登校となり、伯父の家で世話になることになったからである。
長い冬を越えた雪国の新緑は強烈な光を放ち、丘の上の小学校は輝いていた。伯母に連れられ登校し、校長室で担任の先生を紹介され、教室で級友に挨拶した。初めての先生や級友に安堵し、不安は消えた。数日後、隣のクラスのA君に話しかけられ親しくなった。ある日の休み時間、彼と話しながら校庭を横切り、柵もなく続く裏山に吸い込まれるように入って行った。蕨が一面に生えている斜面に腰を下ろし、時を忘れた。ふと我に返ると、私たちを探して叫ぶ級友たちの声が聞こえてきた。図らずも大ごとになり、茂みに伏せ様子を窺いながら、体育館の倉庫の跳箱の陰に隠れた。すぐ前を先生たちが私たちの名を呼びながら通り過ぎた。ほとぼりがさめてから教室に戻った。新人の私は見逃されたが、A君は厳しく叱責された。翌朝会ったA君は、目も合わさず俯いて行ってしまった。以来、彼と話すことはなかった。その冬、彼の父親が炭鉱の落盤事故で亡くなった。それでも私は彼に声をかけられず、別れの挨拶もしないまま卒業式を前に東京に戻った。
今年、恩師を囲んでクラス会が札幌で開かれた。思い出を語る中、忘却していたA君のことが突然甦り、級友のBちゃんに思わず語った。Bちゃんは、「A君は、定年後夕張に戻り畑をしていたが、今は長崎の五島列島に移住し、釣りをしながら自給自足の生活をしている」と言った。驚いたが彼の生き方は理解できるような気がした。
Bちゃんは翌日、車で夕張を案内してくれた。学校はなくなり、学校跡の石碑だけがあった。自然の回復力は凄まじく校庭も森に戻っていた。そして、私が転校した年に出来たダムは、数年前に出来た新ダムの後ろに沈んでいた。晩秋のダム湖の紅葉の背後にわずかに雪を冠した夕張岳がひっそりと聳いていた。そこで記念撮影をすると、Bちゃんは突然五島列島のA君に電話をし、私に渡した。私は戸惑いながら、「忘れているかもしれないが」と前置きし、裏山の一件について切り出した。A君は明確に覚えていた。
東京に戻り、改めてÅ君に電話をした。互いの近況を語り合い、五島列島で再会することを約束をした。