第 3693 号2019.11.03
「 無題 」
りんご(ペンネーム)
しばらくぶりにその店の扉を開けた時私は驚いた。小さな店はいっぱいで陽気な声がとびかっていた。以前いつ来ても一人か二人連れの常連がゆったりコーヒーを味わい聞こえるのは静かに流れるジャズと時折かわされる小さな会話だけだった。「いらっしゃい」はっとして声のする方を見るとコーヒー豆のような店主が苦みばしった笑顔を向けている。そして「あちらへ」と角のテーブルを示した。
そこには予約席の札が置かれていた。この日私は妹とおもいたって突然ここに来た。震災前、店主の体調不良を知らせる貼り紙を目にしてここのコーヒーはもう味わうことができないと思いこんでいた。それなのにこうして今ここにいる。見回すと柱の時計も古びたペコちゃん人形もそのままだった。妹はスペシャルコーヒーゼリーとジャカルタのコーヒーを、私はリラックスできて軽やかなコーヒーを頼んだ。それらが運ばれてきた時私は再び驚いた。カップに絵が描かれていたのだ。この店の器はどれも真白だった。妹の明るくお洒落なパリの風景、私のは美しいピンク色をしたフラミンゴが輪になっていた。熱々のコーヒーは懐しくまちがいなかった。帰り際おもいきって尋ねてみた。「カップはどうやって選ぶのですか」「私の独断でその人にあうものを、フラミンゴのカップは年に一度か二度しか出しません」ここに来る途中妹とかわした会話が蘇える。「どこに行ってみたい?」「アフリカ!」そうだった。私は何故か子供の頃からずっと憧れている。アフリカの大地、流れる川そこに並ぶ何千何万羽ものフラミンゴ。それらがいっせいに飛びたった時一瞬にして空が鮮やかなピンク色に染まる光景。店を出ると朝からふっていた雨がやんでいて美しい夕焼け空が広がっていた。