「 カイツブリ 」
児玉 和子(中野区)
降雨量の少ない四国の香川県には、農業用水不足の対策として、弘法大師が掘らせたという池がたくさんある。
数年前、香川県の高松に転勤したとき親しくなった友人は、池のすぐそばに家をたてた。彼女の夫君は、救命用浮き輪を買ってきて普請中の外壁にぶら下げた。
浮き輪といっても空気を吹き込むビニール製のものではなく、連絡船などのデッキの棚に取り付けてある、本格的な救命用具である。
ある日「ゆうべ夫と喧嘩してしまったの」こんな出だしで、友人はその理由を話した。
―ここに家を構えるかぎり、池におちた人を助ける責任がある―という夫君と、―出費のかさむ折もおり、なにもそこまで責任を感じて、こんな高価なものを―という彼女の考えのくいちがいからの喧嘩だったそうだ。
ほどなくでき上がった家は池も、周囲の野原も、遠くつらなる山々も借景として、友人一家はのどかに暮らしはじめた。
以前から池に住みついていた十数羽のカイツブリは、絶えず身を翻して水にもぐったり、仲間を追いまわしたりする。体長二十数センチ。ハトぐらいのカイツブリは、成鳥でもおもちゃのアヒルのような、あどけない姿にみえる。
夏休みのある日、浮き輪は池になげこまれることになった。
夫君が散歩から帰ってくると、音もなく池面がさわいでいる。そばに捕虫網が浮いていた。夫君は咄嗟に浮き輪を池になげこみ、「おい!来てくれ!」と家に向かって大声で叫んだまま池に飛び込んだ。
ぐったりした男の児をかかえて、浮き輪につかまったとき、なにごとならんとはしり出た友人は、一瞬にして状況を理解し、浮き輪に繋がっているロープを引っぱって二人を岸によせた。生気を取りもどした男の児は、駆けつけた母親にしかられながら、「家で飼いたかったんだ」と言ったそうだ。トンボを追っていた小学二年生の少年は、カイツブリの愛らしい姿に惹かれ、捕らえようとして池に落ちた。
この話をもたらした友人は「浮き輪を買ってきたときは喧嘩してしまったけど、先を読んだわが亭主を尊敬しちゃった」と照れながら感想をもらした。
カイツブリはなんの意図もなく、無心に泳いでいたまずだった。だが、その姿は少年の心を捉、一命をも奪いかねなかったと思ったとき、私は愛らしい姿や、美しい姿といった具象の裏にひそむ、魔力のようなものを感じないではいられなった。