第 3299 号2012.04.15
「 フェルト草履 」
児玉 和子(中野区)
母は改まった外出のときだけ履くフェルト草履を大切にしていた。
今、フェルト草履と言って通じる人がどれほどいるだろう。この頃の草履より幅がゆったりしていて三センチばかりの白いフェルトに畳表が貼ってあった。鼻緒も幅の広いビロードで臙脂色だった。
今は臙脂色などと言わずにワインレッドと言われているが、私には臙脂色と言わないとあの日の風景につながらない。これを履いたときの母は、ポトポトと、なんともやさしい音をさせて歩いた。
着物も化粧もふだんと違ってきれいで、子供心にも誇らしく楽しかった。
「ポトポトと、なんともやさしい音」と書いたが、あの日の私はその音に経験したことのない寂しさと、母への慈しみのようなものを感じた。
その日、母の郷里の萩から私の祖父、つまり母の父親が病に倒れた知らせがあり、続いて亡くなった知らせがきた。
あの時代、東京から山口県の萩までは丸一日を要する距離だった。
そのとき母は弟を身ごもっていて、見舞いにも葬儀にも駆けつけることの叶わない状態だった。勿論、この状況は大人になって知ったのだが……。
あわただしく身支度して出掛ける母に、いつものよう手をひかれながら、いつもと違う何かを感じていた。
ショールで口を覆って歩く母に私も黙ってついて歩いた。ふと、母が泣いていると感じて見上げた。母はあわてて、「なーに」と泣き笑いの笑顔で言った。
やっぱり泣いていたのだ。私もなぜか慌てて、無理に笑って応えたような気がする。
ポトポト、ポトポト、フェルト草履の音が続いた。
ポトポト、ポトポト、その音は故もなく寂しかった。
小学三年生の春、私は大人の世界の悲しみを垣間見た。