第 3258 号2011.07.03
「 文ちゃん 」
西田 昭良(横浜市)
中学生の頃、大学出たての数学教師・愛称〝文ちゃん〟は、授業の冒頭、きまって10分ほどの雑談をするのだった。「僕の初恋は旧制高校の一年生の時でね、ラブレターを出したんだけど返事が来なくて、一週間も眠れなかったことがあったよ」という身の上話から、「川端康成の〝伊豆の踊子〟を読んで、急にその舞台の湯ヶ島へ行きたくなってね、この前行ってきたんだ。素晴らしい所だったよ」という近況。そして、「最近、戦没学生が書き遺した〝きけわだつみのこえ〟を読んだけど、人間って死を覚悟した時、突如、持てる能力が全開して、みんな若いけど、偉大な哲学者や文学者になるもんだね。尤もそれには、日頃の読書や勉強が大切だけど・・・」と、チクリと針をまじえた雑談は多岐にわたった。 文ちゃんの話が面白くて、授業をサボる生徒がいなくなったどころか、教室はにわかに読書熱が盛んになった。 教科書などは受験本位で無味乾燥なものだったが、文ちゃんに触発されて読んだ本から得た感動や知識、教訓は数知れず。後年、同窓会で再会した文ちゃんは言った。「いつもあんな授業をしていたもんだから、みんなを優秀校へ進学させてやれず、すまなかったな・・・」「いや、とんでもないです。お陰で僕たちは、短なる点取り虫人間にならず、こうして一丁前の大人になりました」と、昔の生徒たちは口を揃えて感謝したのだった。 教師との本音や琴線に触れ合った時、子供たちは皆、人は如何に生くべきかを模索し、学び取るものである。 人格形成の礎を担ってくれた文ちゃん。惜しくもガンに罹り夭折してしまったが、現在一番会いたい恩師である。